以下の文章「Chronotopographics 実に気安くも廃墟と呼ばれるなにかとその地図、それぞれの歴史および実相についての私的探求」は2025年5月のニコンサロンでの展示に合わせて刊行した写真集『Chronotopographics』に収録しているものです。廃墟検索地図の立ち上げ経緯、日本廃墟小史およびHaikenとしての廃墟小論をまとめたものです。
なお、写真集『Chronotopographics』はこちらのショップでお買い求め頂けます。
ある大手廃墟サイトを立ち上げて、十四年が経とうとしている。
廃墟が芸術的モチーフとして取り上げられたのは18世紀から19世紀に遡るとも言われるが、現代日本に連なる文脈で言えば、1986年に宮本隆司が発表した「建築の黙示録」があるだろう。これは、ベルリン大劇場や中野刑務所など国内外の歴史的建造物が解体される様子を捉えたモノクロ作品だった。
また赤瀬川原平らが1980年代に確立した超芸術トマソンや「路上観察」的視点も、後の廃墟趣味の一源泉となっていると考えられる。この点で、近代建築鑑賞や変な看板、マンホール、自動販売機などを収集する視点は、廃墟趣味と近しい部分がある。
よりサブカルチャー的文脈で言えば、廃線探索などの形でルーツはおそらく1970年代頃にまで遡れるだろうが、大きく花開いたのは1980年代末から1990年代で、書籍で言えば丸田祥三の『棄景―廃墟への旅』(宝島社、1993年)、小林伸一郎の『廃墟遊戯』(メディアファクトリー、1998年)などがある。
そしてなにより、草創期インターネットこそが廃墟ファンのホームグラウンドだった。古株廃墟サイト「廃墟伝説」は1998年に始まっており、後に『廃墟の歩き方 』(2002年、イースト・プレス)を出版し廃墟探検家として活躍する栗原亨の「廃墟Explorer」は、ウェブアーカイブで遡る限り2000年に開設されている。「廃墟purelove」は1998年、ジオシティーズにあった「廃れ行く日々に」は2002年に遡るが、いずれも既に存在しない。
そのほか、廃墟ファンによる多くの「ホームページ」が個人サイト全盛の時代に花開き、アンダーグラウンドなカルチャーを形成した。後述する日本経済史とのリンクに加え、インターネット史とも廃墟カルチャーは深く相関しており、ホームページからブログ、SNSへと舞台を移していくことになるのだが、やはり最も華やかなのはインターネット初期のホームページ時代だった。
廃墟カルチャーは非常に多様なルーツから織りなされ、多くの近縁領域と影響しあってきた。上記のようなアートの文脈でのモチーフとしての廃墟、また路上観察的視点もあるが、1990年代にあったゴミ漁りなどの露悪的・悪趣味的文化も、残留物巡りなどの形で影響しているだろう。
また基本的な要素として、到達困難な場所に敢えて挑む純粋で原始的な探検精神も見逃せず、この点では登山や洞窟探検の親戚ということになる。実際にいわゆる廃墟の一部は劣化・崩壊によりアプローチが困難となり、一定の探索スキルなしには近づくことすらままならない。「都市探検」(urbex)という語は主としてこの文脈で用いられる。
廃墟としばしば抱き合わせで語られるものとして、心霊趣味がある。廃墟ファンと心霊ファンはインターネットカルチャーにおいては対立することがあり、特に一部の廃墟ファンがオカルト的趣味を嘲弄・批判する場面が見られたものだが、一歩引いて一般社会の目で眺めれば、陰気で薄暗い「廃墟」は「心霊スポット」と同一視されても仕方がない。事実として「心霊スポット」とされている場所は往々にして廃墟でもある。そもそも心霊話というのは言ったもの勝ちなのだから、不使用建築物を指して「あれは心霊スポット」と宣言してしまえばどこでも心霊スポットになる。
ついでに言えば、世の中一般では廃墟趣味より心霊趣味の方が遥かに影響力が強い。廃墟サイトを運営していると、心霊やオカルト的語り、「殺人事件があった」等の下世話な噂話がいかに耳目を集めるものか、嫌というほど味あわされる。
もう一つ、落書きや破壊などのヴァンダリズムがある。落書きと一口に言っても、それこそ便所の落書きのような工夫のないものや、暴走族や十代の不良層などによる行き当たりばったり損壊行為から、グラフィティアートと呼べるような美麗で手の込んだものまで様々だが、基本的には廃墟ファンには評判が悪い。建築物の自然な朽ち方を妨げるものとして、批判の対象になるのだ。
もちろん、これもまた世の中から見ればどっちもどっちかもしれない。「とるのは写真だけ、残すのは足跡だけ」の精神を大事にしたいと個人的には思うが、写真を撮るだけだろうが窓を割って落書きしようが、世間様は同じ穴のムジナとしか見ないだろう。不良たちがドアや窓を破壊してくれることでアプローチが開かれるのも否定し切れず、写真だけ撮る廃墟ファンこそが最後にやってくるハイエナと自嘲する向きもある。
さらにこれに連なるものとして、純粋な窃盗目的での侵入・破壊例もしばしば見られ、昨今では特に増えている。主に銅線などの資材を盗むためのもので、手際よく天井裏が抜かれて金目のものだけが取り去られているので、熟練者らによる組織的な犯行なのだろう。この点でも、廃墟の世界は経済社会と無縁ではない。骨董品やマニア受けするものも、一旦目をつけられるとあっという間に持ち去られてしまう。
サブカルチャーとしての廃墟趣味が1990年代に大きく展開したことは、上記のような文化的諸潮流やインターネット史と同時に、1950年代半ばから1970年代前半頃の高度成長期に非常な速度で作られた大量の建築物が、1980年代後半のバブル期を経て1990年代のバブル崩壊に至って、物理的に劣化・陳腐化が進んだだけでなく、経済的にも維持しきれなくなったことが背景にある。そもそもの話として、廃墟趣味は不使用建築物がなければ成り立たない。
廃墟化している建築物にはもちろん、高度成長期以前に作られたもの、戦争遺構のように戦前戦中に建設されたもの、バブル期やその崩壊前後に建設されその後の景気低迷で放棄されたいわゆる「バブル廃墟」、またバブル崩壊後に作られたものもあるが、1960年代後半から1970年前後頃に作られて1990年代後半から2000年代頃に放棄されたものが数としては圧倒的に多い。
つまり、バブル期からバブル崩壊頃に爛熟したハイコンテクストな道楽が、それ以前から進行していた物質的・歴史的現実と合流したところに、廃墟カルチャーは発生している。この点で、廃墟趣味には戦後日本の社会経済的変遷を映す一面がある。
今回、Chronotopographicsというタイトルで作品をまとめてみようとした成り行きはここにあった。自然が人為により変貌していく姿を新たな風景として見出したニュー・トポグラフィクス、それが出現したちょうど1970年頃に作られた建築群が、30年ほど後に放棄され、そこからさらに20年程度が流れて朽ちていく。それは一旦人為に侵食された自然が逆襲していく姿とも言えるし、人の営みと自然が時間の中で溶け合っていく情景とも言える。試みに、時間を表す接頭辞のChronoをあわせてChronotopographicsという造語を作ってみた。
人類が地上にいようがいまいが時間は流れるが、時を数えて区切るのは人知で、流れた時間を認識するのも人間でしかない。時は流れるものであると同時に、区切るものでもある。
自然が切り開かれて人工物が築かれた後に衰退して再び自然に飲み込まれていくのは、一見すると元に戻るだけのようだが、作られた建築物はすぐには無に戻らず、連続的で即自的な自然に区切り目を入れている。廃墟もまた流れ変転していくと同時に切れ目を入れるものだ。
この区切りは文章に打たれる句読点に似ているし、また文字そのものにも似ている。文字とは、人間たちにとっての意味や目的を背負って地に図として刻まれるものだ。文字はそれを書いた者や読むと想定されていた者らがすべて世を去ってもなお残る。時が流れて誰にも読めなくなり、本来の意味を失ったとしても、少なくとも「それを書いた者」の存在を指し示し続ける。
上空から垂直に眺めた幾何学的な廃物件群、本来の機能を喪失した建築物は、太古の文明か異星の知的生命体の痕跡を思わせるし、掠れて判読できなくなった文字にも似ている。あるいは「不自然」の「不」自体として「自然」に囲繞され、既にそこにないものを意味し続ける。
写真という観点で言えば、廃墟カルチャーには大きく二つの源流があると感じる。宮本隆司に元を辿れるような、元よりアート的な文脈で制作されたものと、悪趣味カルチャー的なものから流れ込んだ現場写真としての「画像」。言うまでもなく、これら二つを本質においてどこで区別するのか、どこにどう連続性を見出すのかという問いは、あまりにも本源的な写真論になってしまいここでは追い切れないが、昨今の廃墟写真の流れを概観する限り、露悪的・悪趣味的な写真よりは、それ単体で一定の審美的基準を満たすような写真が評価されている。SNSなどでは、あまりに生々しいものよりは、ルポルタージュ的具象を剥奪された美麗な廃墟写真が人気を集めている。後述するが、社会全体がホワイト化し、1990年代のような露悪趣味を許容しなくなったことも、その一背景としてあるだろう。
とはいえ、これらの美麗な写真のすべてが、視点の創造という点で批評性を備えているわけではなく、おそらくは既に廃墟カルチャーがジャンルとして一定の形式を得てしまったがために、他の多くのジャンル写真、例えば鉄道写真や天体写真、野鳥写真と同様に、先行する作品群を追って多くの人々が同じ場所に訪れ同じ構図から撮影する、模倣的な性質を帯びている。写真の構図を巡って著作権訴訟が起こされた例まである。
もちろんこの趨勢は、他の数多のサブカルチャー領域と同様に、「廃墟」イメージが既に確立されてしまった以上は避けようのないことで、むしろジャンルとしての成熟度を示しているとも言える。余談ながら、アート系の写真展と比較すると、ジャンルファン向けの廃墟写真展は、アマチュアの有料展示にも関わらずいつも盛況を博している。
ただまったくの個人的な欲で言えば、対象ではなく形式において創造的で、写真としての文脈意識を備えた作品の方が、より一層興味を惹かれるし、誰も見たことない風景をどこかで見たような写真にされるよりは、誰もが見ているものを誰も見たことのないものとして撮って欲しい。どこに行っても呪いのように回帰する一つの視点にこそ、やはり一番の魅力を感じる。
ただこうした試みは、「特別な場所」を訪ねることに意義を見出し、本質的に探検的である廃墟写真というジャンルにおいては、日常の中に新たな切り口を発見する営みよりも、逆説的にも困難な面がある。なぜだろうか。
例えば電信柱というものを、わたしたちは普通、一つの概念的なまとまりとして記号的に認識している。その方が脳が行う処理が簡略化できて楽だし早いからだろう。しかし電信柱を絵に描こうとする人は仔細に観察するし、電気工事の専門家であればディテールまでよく認識しているに違いない。建設工事の関係で電柱を意識する人にはまた別の電信柱が見えているだろう。ここまではまだ人間の合目的的理解の範疇だが、電信柱というものを初めて見た人、宇宙人、人間以外の生き物では違った認識をするし、犬と鳥では見える風景が異なり、そもそも電信柱という一つのまとまりではなく、上の部分と下の部分を別個の概念として捉えるかもしれないし、地面と一続きであったり電線や空、建物と一体的なものと見てもおかしくないし、木々の仲間と考えたり壁や人間の一種と理解したり、まったく予想もつかない諸々の視点がありうる。
このように様々な可能的視点、読解が折り重なるものとして対象を眺めることが、本来の意味での写真的豊かさを支えているし、広く美術や文学といったものは、こうした重層性を丁寧に汲み取っていくことにこそ、少なくとも重要な役割の一つがあると思う。
ところが廃墟というものはそれ自体フォトジェニックでインパクトがあり、ある種観光名所的な魅力をもって撮る以前に撮らされてしまい、見る以前に見させられてしまう。もちろん経験が驚きや感動の「巻き込み力」を薄めはしていくものの、もう一つの問題として、廃物件には諸々の危険がつきまとい探検的性質を帯びるがために、「合理的」で処理の早い、意味的概念的理解が本来的に適した空間だということがある。軍隊や医療に美術や文学は必要ないし、そんな重層的で悠長な認識をしていてはもっと大切なものを失ってしまう。「危急の事態」と複合視点的な理解はそりが合わない。
危険で「絵になる」ものは、なかなか絵にならない。
さて、ようやく自分の立ち上げた廃墟サイトの話になるが、「廃墟検索地図」というタイトル通り、これは地図を主体とするサイトだった。
一般の個人廃墟サイトは、訪問した廃墟の写真やレポートなどから構成されるブログ形式のものが主流だが、廃墟検索地図はそれらとは異なり、わたし個人の行動等とは無関係に、廃墟一般の情報を網羅的に収集しマッピングするデータベース、アーカイブである。
このようなサイトを立ち上げた理由はいくつかあるが、一つにはGoogle Mapsとの縁があった。
仕事で地理情報システム(GIS、Geographic Information System)を扱う機会があり、もともと地図には関心が深かったため、2005年にGoogle Mapsがリリースされた時には、他の多くのプログラマと同様に度肝を抜かれた。それから程なくして、Google Maps API(Application Programming Interface)が一般開発者に開放された。これはGoogle Mapsのシステムにプログラマティカルにアクセスしその機能を自分のサービスの中に組み込めるものだった。
当時は個人開発者が趣味と実益、勉強を兼ねてスモールサービスを公開するのが流行しており、わたしもその一人としてかねてから色々なウェブサービスを作っていた。会社で仕事をしていれば、業務で使う技術は末端のプログラマが好きに選べるものではないので、流行りの技術を勉強したいものなのだ。同時に広まっていたGoogle Adsenseなどを利用し、収益化を図ることもできた。
Google Maps APIの登場は、こうした時流の中での出来事だった。元々地図好きだったわたしは、新しいもの好きの多くのプログラマーたちと共に、ほとんど必然のように様々な地図サービスを個人開発することになった(その後、料金の高騰によりGoogle Maps APIの利用は取りやめ、現在はオープンソースの地図システムを活用している)。
廃墟検索地図は、そうしてリリースしたサイトの一つだった。つまり、実を言うと「廃墟」よりも「地図」が先にあった。
もちろん、廃墟に無関心だったわけではない。当時数多あった廃墟サイトの愛読者であったし、廃墟関係の書籍も購入していた。Google Maps以前の世界で様々な廃物件を切り開いてきた諸先輩方には敬意を抱いているし(後にお目にかかることになった栗原亨氏には、某物件を探し当てるのに十回くらい伊豆に通ったと聞いて頭が上がらなかった)、この時代に取り上げられた廃物件の数々は、現存しないものや至って小規模なものも含めて、私的レジェンドとして懐かしく記憶している。
そして廃墟業界というものは、一般に位置をなかなか明かさないものだということも認識していた。場所が公開されてしまうことで荒らされるのを防ぐことが主たる目的だったが、「秘密にされている場所を限られたヒントから探り当てる」営み自体が、廃墟の楽しみの一部として共有されていたと思う。わたしも割合にこの特定作業を好み、地図好きも相まって廃墟そのものよりむしろ熱中していた。
位置には様々な探し方がある。空中写真、住宅地図、郷土史など一般的な情報から位置を特定することができる場合もある。放棄された構造物をことさらに特別視し秘匿するのは廃墟ファンだけなので、それ以外の方による言及ではなんでもないこととして公開されていることもある。断片的な情報や写真の隅に映り込んだ看板や特徴的な建物といった景色、光の方角や時間帯などをヒントに、ネットスラングで言うところの「鬼女」的技術を駆使して、位置を割り出す方法もある。一番直球なのは公開主と仲良くなって教えてもらうソーシャルな方法だが、そもそも場所を尋ねるのがタブーなのだから簡単にはいかない。
このようにして特定した位置情報を、Google Maps APIを利用したサイトで共有すれば、廃墟カルチャーが一段違う次元へと移行するのではと思いついたことが、廃墟検索地図の始まりだった。
非常に下世話なことを言えば、タブーを破る行為は衆目を浴びる。「売れる」コンテンツというのは大抵、称賛だけを集めるのではなく、賛否両論が激突する類のものである。そういう意味で、廃墟検索地図の公開にはキャッチーな部分もあったし、実際にかなりのアクセスを集めた。
一方で、それまで守られていた紳士協定に土足で立ち入れば、批判を浴びるのは当然である。公開当初はさほど深く考えることなく、「なんとなく面白そう」でリリースしてしまったが、後から振り返れば反対意見は当たり前だった。今思えばかつてのコミュニティ的な絆には大いに意義があり、もっと大切にすべきものだったと思う。
幸いにしてその後廃墟コミュニティの一端と繋がりができ、その中で様々な意見を伺いながら、現在では情報の出し方をかなりコントロールしている。予算をかけリスクをとって現地を訪ね、集めた情報を惜しみなく提供することで、はじめてファンの方々からも情報を寄せてもらえるようになる。情報をどれだけ出すか、どのような形で紹介するかは、ギリギリのラインを探る感覚的なもので、この感覚は多くの場所を訪れ立体的に物件や周りの環境を理解すると同時に、長くサイトを運営し様々な関係者とコミュニケーションを取ることでしか身につかない。様々な利害関係者からの批判に晒されたことも一度や二度ではないが、その度になんとか落とし所を見つけてきた。
もちろんなおグレーな部分が多い廃墟カルチャーは、益々「ホワイト化」を加速していくフラットな社会においては慎重さが求められるのが否めず、これからは一層バランス感覚が要求されるようになるだろう。昨今の流れとして、かつては廃墟ファンだけが訪れていた場所が、産業遺産等として保存されるようになったり、シンポジウムなどの形で一般の方に紹介される機会が増えている。自然に朽ちていく様をこそ最も尊ぶ廃墟ファン的視点からするといささか興ざめな部分がなくはないものの、これもまた廃墟カルチャーを保存し継続する一手段なのだと思う。
ほの暗くどこかコソコソしたところに魅力のある廃墟カルチャーと、「オープンにフラットに」というサイトの作り方には、根本で矛盾がある。それは早い段階から自覚はしていたし、今後もその矛盾を抱えながらやっていくしかないと考えている。
フラットになっていく世界を止めることはできないし、一方で凸凹して暗がりのある世界の魅力も消えることはない。廃墟検索地図は、その狭間でなんとかバランスをとっている流木のような存在なのだと思う。
サイトは「廃墟全般を別け隔てなくフラットに扱う」コンセプトから出発したため、後に様々な困難にぶつかることになった。
一つは、ジャンルが多岐にわたりすぎたことである。
廃墟のステレオタイプなイメージは、廃屋、廃工場、廃病院、廃遊園地や行楽施設跡、飲食店跡などだろうが、劇場や映画館、博物館や秘宝館の跡(秘宝館は現役施設でもB級スポットファンに注目されており、この点でも廃墟と路上観察や珍スポット趣味には通底するものがある)、廃寺など宗教施設跡、研究施設跡、農場や牧場の跡、空港の跡などもある。少子化の影響もあって日本には無数の廃校がある。また廃道があり、これはそれだけで一つのジャンルを成し、酷道ファンやトレッキング好き、登山愛好家らと連続的な文化を形成している。
廃橋も一大ジャンルで、廃隧道だけをコレクションする人もいる。隧道は道路趣味や鉄道趣味の親戚であると同時に、単に「穴」に注目する見方もあり、そうなると鉱山坑口や自然洞窟と連続的になる。とにかく穴が好きで、穴があったら入ってしまう人達がいる。変わった例としては、コウモリが大好きで穴に来る人もいる。穴一つだけでこれだけの人間模様がある。
廃車は「草ヒロ」(「草むらヒーロー」の略)とも呼ばれ、一般の方には想像もできないだろうが、大変人気のジャンルとなっている。廃車の中でも廃バスにだけ注目する、バス好きと廃墟好きが合体したような人々がいて、驚異的な情熱を傾けている。レアながら、廃飛行機もある。廃船はそれだけを徹底して撮影している写真家がいる。
廃自販機という、もはや建築物でもないものも一つのジャンルである。廃パチンコ店も多いし、個人的には廃ガソリンスタンドにも注目している。ガソリンスタンドは法的な制約により構造にパターンがあるので、タイポロジー的な楽しみ方ができる。防火壁などは非常に頑丈で閉業後も壊すことができない。そのため、民家の壁などに転用されて残っていることがあり、なかなか興味深い。
話が逸れるが、この「転用」という視点も物件の楽しみ方の一つである。不使用状態になっていた施設が別の目的で再利用されることだが、ユニークな転用事例はパチンコ店、ガソリンスタンドに圧倒的に多い。パチンコ店がリサイクル業者に使われるのはありふれているが、珍しいところでは寺院や教会などの宗教施設になることがある。ド派手な外装なままタイ仏教寺院に転用されたあるパチンコ店は、元の店名から「パーラー楽園」とシャレがきいていた。ガソリンスタンド居抜き物件は地方では実にありふれていて、コンビニや理髪店、整体院などがよくあるが、変わった例として古美術店になっているのを見たことがある。しかも既に閉業していて、転用の後で再廃墟化という複雑な変遷を辿っていた。さらに余談だが、店舗跡などがリニューアル転用されてもまた潰れる例はとても多い。つまり廃墟→転用→廃墟と輪廻のように繰り返すパターンである。商売はやはり場所が第一なのだろう。
廃ジャンルの話に戻せば、最も恐れるべきなのは廃線、すなわち鉄道関係の遺構だった。鉄道ファンという人達の情熱、執念は、言い方は悪いがほとんど病的な水準に達しており、とてつもない情報収集力・知識量を備えた人たちが沢山いる。「廃」が付くからといって、廃墟界隈の素人か気安く足を踏み入れてはいけないのが廃線である。今でもその道の専門家と決して競わないよう、争わないように気をつけている。
ついでに言えば、廃線は地図というサイトの性質上、扱い方に工夫が必要だった。短いトンネル程度であれば緯度経度を持つ点として扱うことも可能だが、線となると一点では表現できない。
位置とはなにか、という問いは、地図サイトを運営するようになって深く考えさせられたものの一つだった。廃線だけでなく廃鉱山なども面的な広がりを持ち、鉱山集落跡などは現役の住宅街とシームレスに重なっている場合がある。サイトは点の位置情報を基本として構成されているが、実際の物件は点ではないし、線状に伸びたり複雑な広がりを持っている。そのどの範囲が廃的な魅力を備えているのか、意外と一筋縄ではいかない。「物件」概念は具象のようで、半ば抽象化され人の頭の中にしかないものなのだ。その位置もまた自明ではない。
位置とは物理的実体に見えて、実のところ人為というか、ある種の約束事のような一面がある。
ともあれ、これだけ多岐にわたる領域を「廃」の一文字で括るのはどうにも無理がある。少なくとも、一人の人間で十分に深くかつ広く把握し続けるのはほとんど不可能と言ってよい。幕の内弁当的な企画は往々にしてすべてが中途半端になり魅力を失うものだ。
結局、サイト全体としては広く浅くの方向で維持し、その中でも典型的な廃墟物件については深く掘り下げていく形で運営している。
実際上の対応としてはこれで話は終わりなのだが、個人的な関心としては、これだけ多様でありながらなお全体に通底して見えるなにか、あるいは「通底するもの」としてわたしたちが刷り込まれてしまったなにかについて、思索を巡らすようになった。
それがサイトを続ける中で派生した今一つの困難、というより新たな問い、すなわち廃墟とはそもそも何なのか、というものだった。
もちろん廃墟とは使用されていない放棄された建築物なのだが、廃墟カルチャーには独特の語り口があり、単なる構造物以上のなにかをそこに見出そうとしている。冒険的だったり事件簿的だったり、時に心霊的だったりするストーリー付けのことだ。率直なところわたしは、廃墟サイトの一閲覧者であった頃から、この過剰な演出や意味付けにいささか食傷気味だった。
そのようなストーリー付けがあった方がエンターテイメントとして衆目を引くのは当然だが、管理人として来る日も来る日も廃墟やその情報、写真を眺めるようになると、物件それ自体に先回りするように語られるストーリーが自我の押し付けのようで疎ましく、段々と辟易するようになったのが正直なところである。
使われなくなった建物自体は単なる物理的実体で、それ以上でも以下でもない。とりわけ写真には、霊も歴史も診療報酬不正請求事件も映りはしない。家や建物が少しばかり朽ちているだけの話だ。
「廃墟全般を別け隔てなくフラットに扱う」という方針はこのような背景から出たきたものだった。大きかろうが小さかろうが、有名だろうが無名だろうが、歴史的価値があろうがあるまいが、壊れていようがいまいが、心霊やら事件やらの曰くがあろうがあるまいが、一旦同等なものとして地図上にプロットしてみようと思った。
しかしこのフラット化という試みは、あまりうまく行かなかった。冷静に考えれば、初めからわかりきったことだった。
たとえば廃屋。使われていない住居と言い換えても良いが、単に空き家ということなら、日本全体で約900万戸もあるらしい。それらすべてを数え上げてプロットするのがほぼ不可能であるのはもちろん、そもそも空き家のほとんどは居住はされていないだけで放棄されているわけではなく、外観が朽ち果てているわけでもない、要するにただの家である。そんなことをして誰が喜ぶのか。いや、社会学的研究としては一定の意義があろうが、国勢調査ではないのだから、エンターテイメントサイトとしては単に検索性が極度に落ちるだけだ。少なくとも「廃墟」を好んでいる人たちは、そんな情報を求めているわけではない。
やはり「廃」と「不使用」とはイコールではない。認めたくはないが、わたし自身も魅力を感じる建築物とそうでないものがある。
結局、サイトは方針を修正し、自分なりの「廃」に一致するかどうか、利用者の方々に「引き」があるかで線引きやランク付けをするようになった。大雑把に言えば、外観上の朽ちた雰囲気があるか、魅力的なバックストーリーがあるか。いずれの条件も満たさないものは掲載しないか、「評価」の項目を下げている。
それで話を終わらせても何の問題もないのだが、自分の中では依然として引っかかりがあった。
自分なりの「廃」などと安易に言ってしまったが、そこには、脳内「廃墟」イメージへの合致度という、自家中毒的というか、気持ちの良いフレーズをただ擦り続けるような素朴欲動的で底の浅い基準以外に、分水嶺や指標となる価値が存在するのだろうか。「空き家」と「廃屋」を分かつ客観的ラインは存在するのか。物質に先回りしてストーリーを被せる過剰演出的語らいと違うなにかがあるのか。サブカルチャー的「廃墟」概念と共に誕生、あるいは発明され、ほかの言葉や人々との関係の中で享楽的に紡がれているホメオスタシス以上のなにかを、そこに見出だせるのだろうか。
もしかするとないのかもしれない。
なにを言っているのかよくわからないかもしれないが、「廃墟」概念について語っているようで、「廃墟」ではないなにか、そのイメージに回収されないなにかがわたしの中にあるのだろうかという、極めてプライベートで交換困難な問いへと話がスライドしている。
本当のところ、わたしは「廃墟」と言いたくないのだ。
批判を恐れずに言うなら、「廃墟」と言った途端に纏わりついてくる手垢にまみれたイメージ、歴史上のある時点で発明されたステレオタイプに、各人それぞれの好き勝手な思い込みや意味付けを込めて反復される言葉の安っぽさに、少しうんざりしてしまっているのだ。
「廃墟」と言ってしまうのは、言うなれば電信柱を電信柱と見てしまうのと同じことだ。つまり脳に心地の良い一つの概念的纏まりとして認識し、細部を捨象し、あまりにも多岐にわたり雑多で収集のつかない広がりに堰を設け、幾つにも分割されたり他のなにかと一つの連続体を成していたかもしれない可能性を見ないことにして、一言で言える自明の対象として、それ自体を見る以前に見たことにしてしまっている。
ここには、大して知りもせず地域や人々への配慮もなく、概念だけで対象を安っぽく面白がってしまう、ファンですらない外野勢への苛立ちもあるが、その「廃墟」を厚かましくも名称に掲げ、整理分類してデータベースに落とし込み、数値化可能な点の集合として地図に配置していくという、細部の捨象以外のなにものでもない行いによってサイトを運営してきたことへの反省や、それを長年続けてきたことによる煩悶や葛藤が背景として大きくある。
もちろん人とコミュニケーションをとる上で、「廃墟」という共通言語は用具として有用だし、そこに大いに頼ってもいる。ただ言葉は一般化すればするほど、誰にでもわかりやすい最大公約数的で底の浅いストーリーと分かちがたく絡み合い、どのように使ってもチープなイメージに引っ張られてしまうもので、既成のイメージに漫然と寄りかかって良しとする人々だけを残し、元々そこにあった「それ」と本当に向き合ってきた人たちとその心を取り逃がしてしまう。
多分、廃墟に長く関わってきた少なからぬ人々は、はっきりと言葉にはしなくても同じような疑問に苛まれ、「廃墟」イメージと自分の中にあって駆動しているなにかとのズレに苦しんでいるのではないだろうか。もっと言ってしまえば、「廃墟好き」でありながら「廃墟」概念の陳腐さや暴力性に辟易しているのではないだろうか。
何人かの優れた廃墟写真家の作品には、明らかにそのズレを感じ取れると、自分は思っている。他に言いようがないのでとりあえず廃墟と言っているが、彼ら彼女らが追求しているのはもう「廃墟」ではないし、かと言って別の適切な名前もなく、呪いのようなものに突き動かされて、どこに行っても同じ写真を撮ってしまう。
わたしもまた、エンターテイメントサイトの管理者として「廃墟」イメージに依存せざるを得ない現実がある一方で、どこに行っても同じように発見してしまうなにか、わたしが見付けに行っているようで、その実、わたしを見付けて取り憑いている、決して写真には写らない非-対象を探している。
心霊話に心底辟易した人間が敢えて言うが、心霊写真には絶対に写らない霊のようなものがあるのだ。
それは廃墟の中に潜むのではなく、常にカメラの後ろ側にいて、廃墟の方に向かってわたしたちの背中を押してくる。